国家を超える支配力を誇った「モルガン家」の盛衰(後編)

モルガン財閥の創始者、ジョン・ピアポント・モルガンは、19世紀末のウォール街で絶対的な権力を誇りました。

1913年にピアポントが亡くなると、気弱な2代目と思われていたジャック・モルガンが、巨大な財閥をトップとして経営することになります。

第一次大戦の終了とともに影響力がピークに

ジャックが父を継いでトップの座についたのは46歳のときです。父と比べて穏やかだったジャックは、柔和で愛想がいいものの、人物としては二流だと見られていました。

ジャックは、父ほどのカリスマ性が自分にないことを自覚していたため、権限を側近たちに移譲し、自分より有能な人たちに任せることにしました。現代の経営では当たり前のことですが、カリスマだった父ピアポントには絶対にできないことでした。

ピアポントの死後すぐに訪れた苦難にも柔軟に対処しました。

当時の政権が銀行と企業の取締役兼任を禁止する法律案を目指していたところ、モルガン商会のパートナーたちが先んじて、約30社の取締役を一斉に辞任したのです。 

これが功を奏し、1914年に成立したクレイトン反トラスト法では、競合間での取締役兼任は禁じても、銀行家が取引先の取締役になることは禁じませんでした。


第一次世界大戦が始まって1915年になると、ウォール街史上で最高額となる5億ドルもの英仏公債の発行引き受けが行われます。

モルガン商会は、これに主幹事として参加します。引受業者は61社、販売に参加した金融機関は1,570社に達します。ところが、アメリカ国内にはドイツ系移民も多く、敵国である英仏債券を大量に売りさばくのは簡単ではありませんでした。

年末には合計1億8,700万ドルの公債が売れ残ります。モルガン商会が英仏のために足りない資金を用立てることになり、大戦が終わるまでに15億ドルを超える金額を融資しました。

1917年にはアメリカが参戦し、170億ドルもの「自由公債」を販売します。これにはチャーリー・チャップリンやダグラス・フェアバンクスなどの有名俳優が集会に登場し、農民や労働者など、新たなアメリカの個人投資家層が開拓されました。

モルガン商会は、大戦の中で重要な役割を果たしたことで、その支配力をさらに拡大しました。

1929年の「暗黒の木曜日」

第一次世界大戦を終えると、アメリカは記録的な貿易黒字とともに繁栄。反対にヨーロッパは、再建の資金を切実に求めていました。

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