サッカーチームの監督は企業経営者との共通点が多いと言われます。
厳しい勝負の世界で最も難しいのは「勝ち続ける」こと。
その観点において決して欠かせない人物がいます。
2013年まで27年間「世界一稼ぐサッカークラブ」マンチェスター・ユナイテッドを率いたアレックス・ファーガソン氏。
彼がマンチェスター・ユナイテッドで獲得したトロフィーは実に38個。
セコイア・キャピタルのマイケル・モリッツ氏もファーガソン氏から数多くの"経営哲学"を得ているといいます。
リーグ優勝から19年も遠ざかっていたクラブを"常勝軍団"へと変革した「偉大なリーダー」はどのようにして創り上げられたのか。
今回は伝説の投資家も師事を仰ぐ元マンチェスター・ユナイテッド監督アレックス・ファーガソン氏の半生を辿っていきます。
アレックス・ファーガソン氏は1941年、スコットランドのグラスゴー南西部に生を受けます。
ファーガソン家が暮らしていたゴヴァンは造船業が盛んで、彼の父も造船工として四六時中働きに出ていました。
イギリスは階級社会の文化が根強く、工場などで働くブルーカラーは「労働者階級」として生活水準も含めて上流・中流階級の下に位置付けられ、ファーガソン家も治安が悪い地区での生活を強いられました。
産業は地域ごとに集積するケースが多く、労働者は「労働組合」を結成してお互いに助け合っていたためチームスポーツであるサッカーチームが自然と生まれる環境があったといえます。
大男たちが一丸となるためには相応の規律が求められ、10代の頃にサッカープレーヤーだったファーガソン氏の父もご多分に漏れず厳格な頑固者。
褒め言葉などかけてもらったこと記憶がなく、「嘘をつくな。ものを盗むな。早め早めに行動しろ」が口癖でした。
「勝利とは規律を一貫して守った者のみにもたらされる結果である」
「奴らより1分でも多くハードワークしろ。そうでなきゃマンチェスター・ユナイテッドじゃない」
ファーガソン氏に宿る"勝者のメンタリティー"は労働者階級の環境で培われていったのでした。
ファーガソン氏も子供のころから自然とサッカーにのめり込むようになり、点取り屋として活躍。
地区の中学校選抜でプレーするまでに成長していきます。
プロサッカー選手を目指したファーガソン氏ですが、父は猛反対。
自身が14歳で学校を辞めて働き始めたということもあり、子どもたちには手に職をつけてほしいと願っていました。
ファーガソン氏は想いを受け取り、工具制作会社の機械技師見習いとして働きながらプレーを続けることになります。
中学校卒業後、彼はスコットランドでアマチュアクラブ最高峰と言われた「クイーンズ・パーク」の入団テストに合格。
チームは[1軍>2軍>3軍>ユース]という4階層で、ファーガソン氏は入団して1年目の終わりに1軍へ昇格することができました。
機械技術の習得も順調に進み、1年そこそこで見習い課程を卒業します。
父から課せられた条件をクリアしたファーガソン氏は「プロサッカー選手になりたい」という想いを日増しに強めていきました。
17歳だったファーガソン氏はプロチーム探しを開始。
少年時代に教えを受けていたスカウトのウィリー・ニール氏から猛烈な勧誘を受け、1960年に「セント・ジョンストーン」への入団を決意しました。
「レギュラーを約束しよう」という誘い文句に胸を躍らせていた彼を待ち受けていたのは、2軍での厳しい控え生活でした。
工場勤務も続けていたファーガソン氏は夕方に仕事を終えた後、2時間かけて練習場へ移動。
数時間トレーニングをこなしてから日付が変わった後に帰宅し、翌日は6時に起床して働きに出る、というハードスケジュールです。
交通費もそれなりに嵩んでいましたが、クラブにはあれこれと言い訳を駆使していつまでも支払いを拒否されてしまいます。
加えてシーズン開始直後にチームが突然フォワードを補強したことで、ファーガソン氏のプロ1年目はトップチーム出場時間わずか10分という結果に終わりました。
リザーブチームでのプレーに嫌気が差してきたころ、彼に転機が訪れます。
あるとき、ファーガソン氏は仮病を使って翌日の試合を欠場しようとしていました。
そんな中で監督から電話がかかってきます。
ファーガソン氏はリザーブチームでの出場を説得されると思って"着信拒否"しますが、ふだん滅多に怒らない母にも厳しく叱られてあえなく応答。
すると監督から告げられたのは、チームが風邪が流行しているため「トップチームの試合に出てほしい」という出場要請でした。
願ってもない機会が訪れたファーガソン氏は「あれ以来、人知を超えた力の存在に疑いを持ったことはない」というほどの奇跡的な活躍を見せます。
スコットランド最強のレンジャーズに対して前半はリードを許す展開でしたが、後半にファーガソン氏がハットトリックを達成してチームを勝利に導いたのでした。
この活躍をきっかけに知名度が急上昇し、1964年のシーズンオフには「ダンファームリン」へ移籍。
在籍3年間131試合で88ゴールを叩き込むという驚異的な成績を残し、スコットランド代表にも選出されるなどスターダムをのし上がっていきました。
母から「決して負けを認めてはいけない」と諭されて訪れたファーガソン氏の「奇跡の1日」は、失敗と向き合って次のチャレンジへと立ち上がる重要性を学んだ経験として現在も深く心に刻まれています。
サッカー少年は誰でも「将来このクラブでプレーしたい」という夢を持つものであり、ファーガソン氏にとってはレンジャーズがそれにあたりました。
ファーガソン氏は1967年、ついに夢を実現させます。
代表招集の実績を評価されてレンジャーズからオファーを受け、もちろん移籍を決断。
しかし、憧れのチームでの選手生活は厳しいものとなりました。
得点王としてチームを引っ張ったファーガソン氏ですが、ライバルであるセルティックとの直接対決に敗れてタイトルを明け渡す結果に。
レンジャーズはプロテスタント系のクラブで、ファーガソン氏の婚約者はカトリックだったこともあり、熱狂的なサポーターの怒りのはけ口としてメディアにスケープゴートとされてしまいました。
さらには監督が解任され、ファーガソン氏は出場機会が減少します。
3軍に追いやられたことで彼は退団を志願し、「フォルカーク」への移籍を決断しました。
リベンジを誓った新天地で3年間プレーし、122試合で49ゴールを挙げる活躍を見せます。
その後、エア・ユナイテッドで1年間プレーした後に怪我の影響で1974年に32歳の若さで引退を決断しました。
ファーガソン氏は1974年、「イースト・スターリングシャー」の監督に就任。
人生の新たな一歩を踏み出します。
彼が監督生活の初日に掲げたのは「良い指導には徹底的な反復練習が欠かせない」という方針。
当時スコットランド2部(1部リーグの上にプレミアリーグがあるため、実質3部)最下位だったチームの立て直しを図るため、限られた予算の中で在籍する選手を徹底指導します。
特に「ボックス(日本では"鳥かご"、スペインでは"ロンド"とも呼ばれる)」練習を重視し、基礎練習に基礎練習を重ねてパスの精度を磨き上げます。
最初は10本程度もつながらずディフェンダーにボールを奪われるような状態でしたが、数週間で選手たちはメキメキと上達。
反復練習でつかんだ自信はピッチ上にも表れ始め、チームは次々と勝利を重ねていきます。
その実績が注目されたファーガソン氏は就任から3か月で1部リーグ(実質2部)の「セント・ミレン」に引き抜かれることとなりました。
監督業を開始して最も変化が大きかったのは「労働時間の長さ」です。
サッカー選手は試合がなければ2時間程度の練習だけで1日の仕事が終わります。
しかし、監督は試合に向けた準備やコーチ陣とのミーティング、選手との面談など次々と仕事が舞い込んできます。
さらにファーガソン氏は、収入を維持するため引退直前にパブ経営にも乗り出していました。
試合会場の設営からパブの仕入れまで自ら行なっていたファーガソン氏は殺人的な忙しさに見舞われますが、そんな中でもセント・ミレンを1部リーグ優勝、スコットランド最高峰のプレミアリーグ昇格へ導きます。
全ての業務を自らこなす時期を乗り越えたことで、自分のやるべきことに集中することの重要性を痛感。
パブを売却し、監督業一本で食べていくことを決意しました。
経営陣の派閥争いも影響して3シーズン目の終わりにセント・ミレンを解任されます(解任はキャリアでこの1回のみ)。
ファーガソン氏はシーズン途中から誘いを受けていたスコティッシュ・プレミアリーグの中堅チーム「アバディーン」へ活躍の場を移します。
(後編へ続く)
・参考
『人を動かす』(アレックス・ファーガソン/マイケル・モリッツ)
『マネージング・マイ・ライフ』(アレックス・ファーガソン)
『アレックス・ファーガソン自伝』(アレックス・ファーガソン)
When Alex Ferguson got sacked at St Mirren: 40 years on from the job that made him