世界最大の小売チェーン「ウォルマート」。
創業したのは、アメリカの片田舎に生まれた商人、サム・ウォルトンです。
『エクセレント・カンパニー』のトム・ピーターズは、かつて「ヘンリー・フォードを除けば、サム・ウォルトンこそ、20世紀最大の実業家だろう」と述べました。
実際、売上規模の大きさと言う点でいえばウォルマートに勝る米国の上場企業はありません。
2020年1月期の売上は5,240億ドル(≒57兆円)。GDPで言えば、台湾(5,900億ドル)やスウェーデン(5,561億ドル)、タイ(5,049億ドル)と大きく変わらない規模です。
一国にも相当しうる巨大な経済圏の土台を作ったのが、かのサム・ウォルトン。
一般的なイメージとして知られているのは、「大金持ちになっても自宅は質素で、トラクターを自分で運転していた」という節約談ではないでしょうか?
確かに、サム・ウォルトンにはドケチで無駄な消費を良しとしない性格。しかし彼は、そんなエピソードだけで理解できる男ではありません。
彼が亡くなったのは1992年。当時すでにウォルマートは最強の小売チェーンでしたが、それから20年売上は伸び続け、10倍規模に。
そして、その礎を作ったのがサム・ウォルトンなのです。今回は彼の生涯について、シリーズ形式でお伝えしたいと思います。
サム・ウォルトンは1918年、オクラホマ州のキングフィッシャー生まれ。彼自身の記憶は、5歳ごろに引っ越したミズーリ州スプリングフィールドで始まります。
父親トーマス・ギブソン・ウォルトンは超正直者で、極めて誠実な人物。
一方では風変わりなところもあり、ものを交換するのが好きでした。腕時計と豚を交換したり、馬、ラバ、牛、家、車など、何でも交換。
彼は最高の交渉人だったものの、実業家としての野心はなく、借金も嫌いでした。一方で、銀行マンや農業、保険代理など、あらゆる仕事に携わります。
1929年、大恐慌の時代には全ての仕事を失います。
そこで掴んだ仕事は、不良債権回収の仕事。時代が時代だけに、善良な人々から先祖伝来の土地を取り上げなくてはなりませんでした。
家は裕福ではなかったため、サム・ウォルトン自身も小さい頃から仕事をしました。実家の牛から乳を絞り、放課後に配達したりしていたようです。
7歳になる頃には、雑誌の予約販売も始めたと言います。以来、大学時代にかけてはずっと新聞配達をしたり、ウサギやハトを飼って売ったり。しかし、当時のアメリカの田舎では珍しくもなかったと言います。
サムの両親は非常に仲が悪く、弟のバドとともに少年時代、居心地の悪い思いをしていました。しかし、父母の唯一の共通点が「お金を使わない」こと。
こうしてウォルトン家では、いつまでも質素に暮らすという原体験が出来上がりました。
サム・ウォルトンは少年時代を振り返り、「人に野望を抱かせるものが何なのかはわからないが、私が生まれつき、情熱と野心を有り余るほど授かっていたのは事実だ」と書いています。
大きな影響を与えたのは母親で、「何事もやるなら全力を尽くしなさい」とハッパをかけました。
おかげでサム・ウォルトンは競争心の強い子供として育ち、13歳でイーグルスカウト(ボーイスカウトの最高位)になります。当時のミズーリ州では史上最年少だったとのこと。
身長は170センチくらいとアメリカ人としては小柄なウォルトンでしたが、高校時代はフットボールでクォーターバックを務め、負け知らずだったと述懐しています。
実際、幸運もあって一度も負けたことがないとまで言っています。事実がどうなのかは知るよしもありませんが、こうした体験でサム・ウォルトンがそれまで以上の自信を手にしたのは確かです。
ミズーリ大学で経営学の学位をとったサム・ウォルトンは1940年、当時既に大手の百貨店だった「JCペニー」に就職。
アイオワ州デモインの店舗に配属され、管理職見習いとして働き始めました。これが、サム・ウォルトンと小売業の「出会い」となります。
ウォルトンは字がものすごく汚く、会計監査員からは何度もドヤされました。「ウォルトン、もし君の販売成績が優秀でなければ、君をクビにするところだ。君は小売業に向いてないよ」と言われたそうです。
それでもサム・ウォルトンは小売業の仕事にのめりこみ、店長に自分の理想像を見つけました。彼は多くの店長を育てあげ、店長としても業績をあげていました。
ある時、ボーナスの小切手をサムたちに見せ、若手はひたすら感心したと言います。
サム・ウォルトンはJCペニーに約1年半ほど勤め、小売業について吸収しました。当時から競争相手をつねに調査し、シアーズやヨンカーズといった店舗を視察しました。
1942年には、祖国のために軍隊に入ることを決意。ところが、不整脈のために身体検査に引っかかり、戦闘員にはなれないことが発覚します。
これにガッカリしたサム・ウォルトンは、ともかく召集を待つことにしてペニーを退職。
石油ビジネスでも見てみようかと考えて、タルサに向けて旅立ちます。ところが、なぜかタルサ郊外のデュポン火薬工場で働くことに。そうして出会ったのが、のちに妻となるヘレン・ロブソンでした。